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2020.07.06
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コメント
ここからは設問Bです。こちらも非常に面白いですね。この問題を作られて先生の優秀さが思い計られます。
最小値0、最大値100という変わったグラフです。解析していきましょう。
まず目に付くのはDですね。2010年が最小値となっています。1950年から上がり始め、1960年にピークとなりました。しかしそこからは急激に下がっています。これを「夕張」とみるのは自然なことではないでしょうか。高度経済成長期の初期までは石炭産業の中心地として栄えていましがが、1960年代のエネルギー革命によって動力源が石炭から石油へと転換するなかで炭鉱が閉山し、人口も急減した。現在は過疎化が進むという形です。
これと似た形にBがあります。同じく高度経済成長期の初期がピークです、しかしDと変わっているのは、2000年代になって人口が再び増加していることです。設問Bの内容を踏まえて考えれば、これが「ドーナツ化現象→都心への人口回帰」であることが分かります。中心市街地である「都心3区」とみていいのではないでしょうか。
これで選択肢の①と③は分かりました。選択肢④と⑤そして⑥は全国を対象としたものであり、母数(分母となる数。例えば④ならば全国の総人口)が大きく安定した数字であることから(日本の人口ってそんなに急激に変化していませんよね)、これらの値は増減の少ないものと思われます。最小値となる年次、最大値となる年次はそれぞれわかりにくいでしょう。
ここで図3−3のグラフを確認します。それぞれの動きをまとめてみますね。
A;継続して上昇し続けています。伸び方のペースは緩やかですが、一回も値が低下していないことが特徴です。
C;戦後間もない1950年代に急上昇。ただし、そこからはほぼ横ばい。2000年以降に再び急上昇しています。
E;高度経済成長期の末期から低成長期に当たる1970年代以降に急増しています。その代わり、1990年代以降は高い値で安定しています。
F;これが最も特徴的な動きをしていますね。戦後復興期(1950年代)に比べ1960年代の値が低く、2010年にかけて全体的に増加の傾向にあるものの、局地的なアップダウンの激しい動きになっています。
以上のことをふまえ、それぞれ検討していきましょう。
Fはおそらく⑤「全国の完全失業率」だと思います。高度経済成長期に最低だったことからそれが想像できます。
Aは④の「高齢者率」ではないでしょうか。一貫して上昇しています。戦後の日本の人口動態を考えるに、一時的に高齢者率が下がることはありえないでしょう。
残るはCとE。これが②と⑥のいずれかです。
Cが②の「1市町村当たり〜」に相当すると思われます。2005年に一気に値が上昇していますよね。これ、「平成の大合併」の影響でしょう。多くの市町村合併が行われ、市町村の数が減りました。その分だけ一つの市町村の人口が大きくなるわけですからね。
ということは残ったEが②「多摩」です。1950年代は東京西部の単なる農村だった多摩地区が、1960年代の高度経済成長期には住宅地として開発の手が及びます。ニュータウンがさかんに建設されたのでしょう。開発は1990年頃まで続きます。人口は継続的に拡大していきます。
ただし、21世紀に入ると、都心への人口回帰の動きもあり、郊外地区の人口は停滞します。多摩ニュータウンはその典型的な地域です。これからはニュータウンの住民の高齢化が問題となりますね。居住者の年齢が特定の世代に偏っているため、急激な高齢化が必然となります。施設のバリアフリー化、病院やデイケアなど高齢者向けのサービスの拡充が必須となりますね。
さて(2)の問題ですが、のいさんの解答でまさしく正解でしょう。
>設問B
>(2)全国各地で市区町村の統合が行われたことで数が減ったから。
こちらで大正解です。全く問題ありません。
それにしてもおもしろいグラフでした。さすが東大ですね。素晴らしい問題を問うてくるものです。
ここからは設問Cです。
まず(1)ですが、制限字数60字のうち、指定語句の「中枢管理機構」と「住宅地開発」ですでに11字もあるわけですから、書く内容は精選されてきますね。
中心地からの通勤者については。大阪圏においては「大阪市;45.5%」、名古屋県においては「名古屋市;67.6%」です。
一つの要因としては都市圏(通勤圏)の大きさがありますね。中枢管理機能の大きい大阪市においては都市圏の規模も大きくなり、より遠方からの通勤者を迎え入れていることになります。
さらに、これは想像するしかないのですが、そもそもの行政区分としての大阪市と名古屋市の面積のち外もあるでしょうね。大阪市の方が面積が狭く、さらに大阪圏における大阪市が占める面積の割合、名古屋県における名古屋市が占める面積の割合は前者が小さいのでしょう。大阪市の縁辺部であっても比較的住宅が密集し市街地となっているのに対し、名古屋市の縁辺部は一部に都市化が進まない地域も含まれているのではないでしょうか。
大阪圏では大阪市を超えた範囲でも住宅地開発が積極的に進められたのに対し、名古屋圏では積極的な住宅地開発が名古屋市の範囲にとどまっていたのでしょう。
以上のことを踏まえて、のいさんの解答をみてみましょう。
>設問C
>(1)大阪市は名古屋市よりも中枢管理機能が発達しいる。また、大阪市は面積の割に就業者数が多いため郊外への住宅地開発が進んだ。
とてもいいですね。2つの観点から述べられています。就業者の数にも言及されている点がとてもいいと思います。十分合格圏でしょう。
大阪市は中枢管理機能が発達し巨大な都市圏を形成するが、市の面積が小さいため、市外の住宅地開発が積極的に行われた。(56字)
私も書いてみました。こういった感じだと思います。
次の問題です。今度は字数が多いですね。「郊外住宅地化」と「その後の変化」について述べることが求められています。いずれも通勤者は「85〜95」に増加して後、「95以降」に減少しているわけで、この両方の時代を比較することも必要です。
>(2)共に距離帯が遠い地域であると考えられる。バブルによる地価の高騰により通勤者数が一時は増加した。しかし、バブルの崩壊と団塊世代が退職したことで再び推移は低下している。
いいですね。ポイントがとらえられています。とくに「団塊世代」という言葉の使い方が適切です。「距離帯」もこうした書き方でいいでしょう。実は「地価」が難しいんですよね。郊外ですので地価は安いわけですが、時代背景を考え都心部の地価高騰にこそ触れた方が良さそうです。「バブル経済による都心部の地価高騰により、地価の安い郊外の住宅地化が進んだ」と本来書くべきなのでしょうが、字数的にそれは厳しいですからね。ここはうまく省略して書くことが必須となります。のいさんのように「バブルによる地価高騰により通勤者数が一時は増加したが」と書くと、この郊外地域の地価高騰であると勘違いされてしまいます。一言、「都心部」と述べた方がベターですね、「バブル期の都心部の地価高騰の影響で郊外住宅地化が進んだ」といった書き方になるでしょうか。
私も書いてみましたが、バブル経済という言葉が入らなかった点がマイナスですが、おおよそ要点はつかんでいると思います。よかったら参考にしてくださいね。
いずれも大都市圏の縁辺部の距離帯に位置し、地価が安いことから80年代まで郊外住宅地化が進んだ。90年代後半は団塊世代の退職により、都心部への通勤者が減少した。
というわけで、添削回答までに多くの時間を費やしてしまったことをお詫びいたします。しかし、時間をかけて分析するに価値のある問題であったとも思います。全体的に質の高い(難しいという意味ではもちろんありません)東大の問題の中でも、とくに本問はレベルの高い問題だったと思い合う。こうした問題に出会えることも勉強の醍醐味の一つですので、さらに充実した、そして楽しい受験生活を送ってくださいね。
- 2020.07.26 08:55
- たつじん
こんにちは。ずいぶんお待たせしてしまって申し訳ありません。問題そんものの質が極めて高く、まずは私自身もじっくり取り組んでみたいと思っている所以なのです。
今回も途中までしか添削が終わっていませんが。とりあえず完成部分のみ回答となります。参考にされてください。
>2015年度第3問(日本の都市と社会の変化より)
非常におもしろい問題ですね。僕も一緒に解いていこうと思います。
まず都市圏構造について思い出してください。
都市圏=都心部+郊外
でしたよね。都市圏は通勤圏です。人々は日常的に「都市圏」というエリアの中で動き回ります。人口は全体的に住んでいるのですが、会社(業務地区)は都心部に集中しています。郊外の労働者が都心部のオフィスに通勤するため、都心部では「昼間人口>夜間(常住)人口」となり、郊外はでは「昼間人口<夜間(常住)人口」となります。都市圏内の人口は変化しません。
さらにもうちょっと細かくみていってもいいと思います。都心部の中でも特に中心に近いエリア(中心市街地)は中心業務地区(CBD)として高層ビルが立ち並びます。「都心部」−「中心市街地」=「周辺市街地」です。周辺市街地はいわゆる旧市街地で、昔ながらの商店街や中小工場(町工場)などが並びます。都心部から郊外へとだんだんと移り変わるエリアということで「漸移地帯」とも呼ばれます。
これより外側が郊外ですね。郊外も開発の歴史によっていくつかの種類に分かれます。
郊外のうち、最も内側に位置するエリア(つまり都心部に接する部分)は比較的古い時期から住宅地として利用されています。都心部が「東京都区部」であったり「大阪市」の範囲だったりしますから、それに接する中小都市といった感じでしょうか。
それに対し、郊外でも最も外縁部に位置するエリアはいわゆる新興住宅地であり、ニュータウンが多く建設されています。以前はのんびりとした農村風景が広がっていたものの、鉄道の建設やバス路線の開設によって都心部への通勤圏が拡大すると、こうしたエリアの宅地開発が進みます。近郊農業が行われているかも知れませんね。東京大都市圏は半径50kmに広がる円がその範囲の目安ですが、埼玉県北部や茨城県南部、房総半島や神奈川県相模地区がこれに該当します。
以上のことを踏まえつつ、A〜Cの判定をしていきましょう。
図3−1参照してください。人口密度のグラフですが、この数十年のうちにそれぞれの区の面積は変化していないでしょうから、実質的に「人口」のグラフとみていいと思います。これらの区がいずれの市に含まれるものなのかは不明ですが、架空の市として考えてしまっていいと思います。
比較的似た傾向を示すのがAとBであるのに対し、Cは全く違います。この60年の間に人口は5倍以上になっています。都市圏においてこのような動きを見せるのはどこでしょう。
そう、もちろん「郊外」ですよね。1960年代の光度経済成長期に新たに開発され、ニュータウンが建設された。現在でも人口増加は継続している。
このような地域に特徴的にみられることは、この地の固有の産業(つまり「従業地」としての産業)と、ここに住む人々の職業(こちらは「常住地」ですね)が一致しないことです。ここを常住地する人々(住民)の多くは都心部へと通勤し、オフィスワークに就いているはずです。一方、この地域自体にはそうした業務機能はなく、郊外型の商業施設が立地し、さらに農業(近郊農業)が行われているかも知れません。
図3−2を参照しましょう。なるほど、といった形のグラフがありますよね。それはウです。1965年、2010年ともに「常住地」の職業割合は「事務」が多いのに対し、いずれも「従業地」では「事務」が少なくなっています。これ、都心部への通勤を示しているのではないでしょうか。Bをウと判定して問題ないと思います。
一方で、ウと逆の傾向を示すものもありますね。イは1965年および2010年の「常住地」では「事務」の値が低いのに、ともに「従業地」では「事務」の割合が拡大しています。この区はオフィス街として中心業務地区になっているのではないでしょうか。都市圏構造において「中心市街地」となります。
都市の最もコア(核)の部分として、戦前から(もしかしたら江戸や明治から)市街地化が進み、都市機能が集積していた場所と思われます。ただし、逆に言えば、これ以上人口が増える要素がなく、CBDであるが故の便の良さ、地価の高さ、そして居住地としては適さないなどの要因によって再開発が進み、常住人口の減少がみられたのでしょう。いわゆる「ドーナツ化現象」ですね。再開発によってビジネス地区や商業地区へと転換し、人々は転居を余儀なくされた。1950年代から継続して人口が減少しているCがアに該当するのでは。
以上より、残ったAはイです。これは面白い傾向を見せますね。1950年代には人口が増加しています。この時期に住宅地化が生じたのでしょう。しかし、高度経済成長期である1960年代には急激に人口は減少に転じます。当初はB区と同様に「郊外」型の特徴を有する区であったのに、やがてC区のように「都心部」型の人口変化パターンとなります。ここは「周辺市街地」なのではないでしょうか。戦後間もない時期に人々がこの地に多く移り住んだものの、都心に近接し、地価の高騰などもあり、人々は再び流出することになりました。郊外と都心部の端境的な特徴をもっています。
イのグラフはおもしろいですね。ポイントが2つあります。一つは常住地と従業地の比較によるもの。常住地による職業割合と従業地による職業割合がほとんど変わりません。これはア(中心市街地)とウ(郊外)との中間的な性格と言えますね。さらに1965年の主な職業が「生産工程等」であること。これ、工場ですよね。とくに戦後間もない時期ですから、大規模な鉄鋼業や石油化学工業ではなく、中小の「町工場」ではないでしょうか。こうした町工場や商店街がみられる光景、この時期の都市の一般的なものであったはずです。住居に近接した(あるいは一体化した)工場。常住地と従業地の職業割合がほぼ同じということは、家族経営の町工場があり、そこで家族ぐるみで働いていたということではないでしょうか。
ただし、さらに注目すべきは2010年に「生産工程等」が急減していることです。なるほど、この数十年の間にこれらの町工場は閉鎖され、町の様子が大きく変化したことを示しています。この時期は人口の減少期とも重なります。町工場がなくなり、住民も転出を余儀なくされた。工場跡地は再開発され、オフィスビルや商業施設などが建設された。より都心部的な業務地区や商業地区へと変化したことが窺えます。
では、ここで改めて問題をみてみましょう。(1)については解決済みなので、(2)ですね。AとCで人口密度が低下(つまり人口減少)がみられ、その理由を述べることが求められています。
1960年代から1970年代ですから「高度経済成長」の時期です。「高地価」や「居住環境の悪化」によって人口が郊外に流出します。このドーナツ化現象を中心に述べればいいわけですが、ちょっとしたポイントがあり「それぞれどのような理由」ということで、AとCについて個々の事例にも言及しないといけません。
ここでのいさんの答案を拝見しましょう。
>(2)
>いずれも高度経済成長による人口の流出が原因である。Aは産業構造の変化により、工場などが転出した。Cは土地の価格が高騰したため、住宅用地からオフィスの用地へと変化した。
なるほど、とても上手く書けていますね。90字という字数を巧みに使いこなしています。まず、最初の文でAとCの共通の要因である「高度経済成長」という時代背景を述べています。それに続き、Aの説明、Cの説明と文章が組み立てられています。かなり考えられた構成であり、採点者にもその意図は伝わると思いますよ。Aでは「工場」についてキチンと述べられています。中心市街地であるCは間違いなく「地価の高騰」が生じたでしょうから、最後も適切な文です。
私も自分で答えをつくってみました。
高度経済成長期の都市の成長を背景として、旧市街地であるCでは高地価により人口が流出し、再開発によって中心業務地区へと機能が特化された。Aでは中小の町工場の廃業により、住民が転居。(89字)
おおよそ言いたいことは言えているのですが、Bについての説明が足りなかったように思います。満点解答ではありませんが、なんとか許容範囲かと。
ではさらに(3)について。これはシンプルだと思います。「都心への人口回帰」ですね。
のいさんの解答を拝見します。
>(3)バブル経済の崩壊により地価が下落し、高層住宅への居住者が増えた。
これもいいですね。先の説明で「地価の高騰」に言及しているのですから、こちらは「地価の下落」が間違いなくキーワードになります。
私も書いてみました。
地価下落と規制緩和で再開発による市街地の住宅地転用が進んだ。(30字)
どうしても「再開発」という言葉を使いたかったのでこのような形となりました。「バブル経済」に言及できていないので、もしかしたら減点かも知れません。都心のマンション建設には規制緩和も要因ですので、これも加えています。
とりあえず今回はここまでです。設問B以降も必ず添削回答いたしますので、もう少々お時間をいただけますか。よろしくお願いします。
- 2020.07.22 10:56
- たつじん
のいさんこんにちは(^^)
こちらの問題の添削ですが、少々てこずっております。もう少しお時間いただけるでしょうか。
週末(日曜)までには添削できると思いますので、今しばらくお待ち下さい。
- 2020.07.16 09:49
- たつじん
2015年度第3問(日本の都市と社会の変化より)
設問A
(2)
いずれも高度経済成長による人口の流出が原因である。Aは産業構造の変化により、工場などが転出した。Cは土地の価格が高騰したため、住宅用地からオフィスの用地へと変化した。
(3)バブル経済の崩壊により地価が下落し、高層住宅への居住者が増えた。
設問B
(2)全国各地で市区町村の統合が行われたことで数が減ったから。
設問C
(1)大阪市は名古屋市よりも中枢管理機能が発達しいる。また、大阪市は面積の割に就業者数が多いため郊外への住宅地開発が進んだ。
(2)共に距離帯が遠い地域であると考えられる。バブルによる地価の高騰により通勤者数が一時は増加した。しかし、バブルの崩壊と団塊世代が退職したことで再び推移は低下している。
いつもありがとうございます。今回もよろしくお願いします。
- 2020.07.08 00:54
- のい
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