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2017.10.07
添削フォーム4
コメント欄に、入試問題の大学名と年度、問題番号を書き、それに続けてあなたの解答をペーストしてください。
コメント
後半部分の質問に対する回答です。
さすがに、この模範解答は「やり過ぎ」だと思いますよ。専門家の先生がたは優秀なかたが多いので、こういった素晴らしい解答例をつくってしまう傾向にあるのですが、それが果たして受験生のレベルに合致しているかというと、おおいに疑問があります。
幸い(?)私の場合、知識はありませんので、できるだけ簡単に、受験生にも十分に書けるレベルの解答例を提示しようと考えています。考え方は人それぞれですので、一概にどちらのアプローチが正しいとは言えませんが、私の個人的な見解としては、あまり特殊な内容はいれるべきではないと思っています。
「減反政策」ぐらいには言及できたかもしれませんが、そもそも「栗」など知る由もありませんし、自分の知識量に不安にならず、自分の書ける範囲で、しっかり400字の「作文」を作り上げることができれば、それでいいと思いますよ。次回も期待しています(^^)
- 2017.11.04 10:47
- たつじん
こんにちは、今回もお待たせしてしまい申し訳ありません。いよいよ11月に入り、論述対策が本格化する時期でもありますし、これからはもう少し早く添削をお届けできるようにはしますね。
では、早速添削に入りたいと思います。
解答拝見いたしました。今回もとてもスムーズな文章となっており、素晴らしいと思いますよ。筑波の場合は400字という字数にひるんでしまう受験生が多いのですが、poenさんの場合はその辺りはクリアしているようで、感心します。文章力も十分に高く、読みやすい解答となっています。また、下手に文章が上手だといたずらに一つの文を長くしてしまい、かえってわかりにくくなってしまうことがあるのですが(いわゆる知識人による論文なんかその傾向が強いですよね)、poenさんの場合は、あまり一文が長くならないように意識しているのではないでしょうか。地理の論述問題は、「難しい文章」を書くのではなく、誰にでもわかる「平易な文章」を書くことが最低限求められるわけですので、poenさんのこういったアプローチは正解だと思いますよ。
まず問題文を読み取りましょう。「農業の特色の変化」について「社会条件」と「社会経済条件」の両面から述べることが求められています。自然条件いついては主に地形について言及すればいいのだなと見当が付きますが、社会経済条件が難しいかも知れませんね。ここをしっかり書けるかどうかが勝敗の分かれ目になるでしょう。
>東部から西部へ広がる扇状地の乏水地である扇央や八木沢川沿いの高燥な自然堤防上などで1952年には桑畑として広く利用されていた。
いいですね。「高燥」や「利用してきた」など、言葉のセレクトの仕方がうまくなったような気がしますよ。この調子で行きましょう。扇状地については、「松川」や「四ツ屋」、「白滝」などのような具体的な地名に触れても良かったかもしれませんね。「松川のつくった扇状地」などのように。
>しかし1992年には桑畑の土地利用は消え、代わりに1952年にも桑畑と同様の土地で利用されていた果樹園の土地利用が桑畑の跡地でも広く利用されるようになっている。
ここも悪くはありません。ただ、ちょっと文章としてわかりにくかったかな。「土地利用記号は桑畑から果樹園に変化している。桑畑が無くなり、その跡地が果樹栽培に転用された。」などのように、スッキリとした形にしましょう。
>これは当時日本が軽工業を中心に工業を行っており特に日本の工業出荷額の大半を占めていたのは糸を生産するための養蚕業が活発で蚕の育成に桑が必要だったからである。
なるほど、ちょっと回りくどい文章かなと一瞬思いましたが、うまく説明されており、わかりやすい文章になっていますね。例えば、ここも「当時」ではなく、(1952年という時代背景より)「高度経済成長以前の日本では」としてもいいでしょうし、糸については「生糸」、あるいは「絹織物工業」という言葉を入れても良かったでしょう。細かい部分で申し訳ありませんが、「育成」より「飼育」が適切かな。また、この地域がどこかわかったならば、その情報を盛り込むのも一つの手です。
「高度経済成長期以前の日本では、繊維など軽工業が中心に行われており、とくに長野県など内陸地域では、絹織物工業が発達し、その製品はわが国の主な輸出品となっていた。図に示された長野県においても、桑が栽培され、蚕の飼料となり、その繭から生糸が得られ、絹織物の原料となっていた。」
どうでしょうか。決して難しいことは述べていませんので、これぐらいなら十分書ける範囲と思いますよ。
>高度経済成長を果たし、工業の中心から軽工業からより付加価値の高い製品を生産できる重化学工業へと転換されると軽工業は衰退し、それに伴う養蚕業の衰退、そして桑の需要が低下した。
この部分は非常にいいですね。社会経済的条件が述べられています。「重化学工業」化が進んだことがしっかり述べられています。
>それによって桑畑は姿を消したが経済発展による食糧需要の増加に鉄道が産地に近く出荷しやすい事から果樹園が代わって広がった。
ここについては、輸送のしやすさには言及する必要はなかったかな、と思います。果樹は保存が効きやすく、輸送条件は重要視されません(鮮度が重要な生鮮野菜とは対照的です)。また、「食糧」としてしまうと、主穀である米や小麦を指すことになってしまうので、ここは「食料」の方がいいと思います。
「経済成長による食料需要の増加や食文化の多様化を受け、この地域では広く果樹栽培が行われるようになり、その生産量は急増した。」
この程度のことを書けばいいと思います。
>また交通の便や人口増加に伴って農地部分に工場や住宅地が広がっている。
この部分は「おまけ」ですが、工場用地や宅地ももちろん土地利用変化の一つですので、しっかり言及することはたいへん素晴らしいことです。
全体として非常に「適切」に書けています。準備の足りない受験生ならば、なかなかこのレベルの文章は書けないと思いますよ。この調子で、どんどん過去問演習を進めて行きましょう!
- 2017.11.04 10:45
- たつじん
こんばんは。ありがとうございます!
今回も添削よろしくお願いします。
2017年筑波大学文系第1問です。
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東部から西部へ広がる扇状地の乏水地である扇央や八木沢川沿いの高燥な自然堤防上などで1952年には桑畑として広く利用されていた。しかし1992年には桑畑の土地利用は消え、代わりに1952年にも桑畑と同様の土地で利用されていた果樹園の土地利用が桑畑の跡地でも広く利用されるようになっている。これは当時日本が軽工業を中心に工業を行っており特に日本の工業出荷額の大半を占めていたのは糸を生産するための養蚕業が活発で蚕の育成に桑が必要だったからである。高度経済成長を果たし、工業の中心から軽工業からより付加価値の高い製品を生産できる重化学工業へと転換されると軽工業は衰退し、それに伴う養蚕業の衰退、そして桑の需要が低下した。それによって桑畑は姿を消したが経済発展による食糧需要の増加に鉄道が産地に近く出荷しやすい事から果樹園が代わって広がった。また交通の便や人口増加に伴って農地部分に工場や住宅地が広がっている。
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以上です。よろしくお願いします。
またスタディサプリの過去問ページで利用させていただいた解答について
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当地域は松川の扇状地と西部は氾濫原で、図1当時扇端部には水田が見られたが、乏水性の扇央部は、小布施村では桑畑よりリンゴなどの果樹園が広く分布し、須坂町では果樹園はわずかで桑畑が主であった。その後、養蚕業が化学繊維や輸入生糸との競合で不振となり、桑畑は冷涼な栽培条件などに合うリンゴ栽培に転換した。また小布施村では山林地目であった栗林が農地改革の対象となったため、山林は開墾されて畑やリンゴ栽培に転換した。1960年代後半から1970年代にリンゴ価格の低迷や病気の発生、米の減反政策も背景に桃やブドウなども加わり栽培果樹も多様化し水田前果樹園化した。また共同出荷組合などの結成で果樹栽培地は拡大し、特に高度経済成長期の生活水準の向上で果樹消費量の増加や小布施特産の栗の和・洋菓子などの需要が増大、また、各地の農協が統合されたJAが果樹の生産から販売まで関わることで、各集落・農家は果樹栽培に特化している。
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とあり、読図だけではかけないような事実ありきの解答のように感じます。(具体的に果物名をあげている点、小布施の栗、共同出荷組合などです。)
まだまだ減反政策や農協について触れられなかったのは自分の実力不足だと思いますが、この解答は読図からは難しい内容に感じたので、どの程度までは把握できれば良いかについてもアドバイスを頂きたいです。
よろしくお願いします。
- 2017.10.24 22:55
- poen
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